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  • 執筆者の写真: 渡邊 優
    渡邊 優
  • 2月24日
  • 読了時間: 2分

昨日は大覚寺特別展を見に行ってきました。https://tsumugu.yomiuri.co.jp/daikakuji2025/

その数々の展示品やお寺の復元物を見ていると、すっかり忘れていた幼い頃を思い出しました。


私が通っていた保育園は總持寺保育園と言い、鶴見の總持寺が運営している保育園でした。

そこは変わった保育園で、子供の頃からお坊さんと一緒に座禅会や食事会などがある保育園でした。

確か週一くらいだったと思いますが、座禅会に行く途中、お寺の恐ろしく長い黒光りした廊下を皆んなで歩いていくのですが、その廊下を歩いているとどうしても疼くんです。絶対に走ってはいけないところを走りたい!走って思いっきりスライディングがしたいと!(キャプテン翼世代)そして「ダッダッダッザザザッアアアーー」と見事なスライディングをするとそこはガキども、一人が始めると次から次へと「ダダダッザザーー」と始まってしまう・・・そしてそのテンションで座禅をすれば当然バシバシ肩を叩かれるという保育園時代でした。


そして最も記憶に残っていたのがお寺へのお泊まり会です。(今思えば何とも贅沢な時間ですね)

お寺の寝殿(バカでかい、100畳くらいのお部屋)に子供達とお坊さん皆んなで泊まるのですが、その時に夕飯を共にしたお坊さんがとても顔が大きくて、そして透明感があり、穏やかで優しいお坊さんでした。多分30代くらい。そのお坊さんは私のくだらない質問にも丁寧に答えてくれて(いつもこういうお肉がないご飯なの?何時に寝るの?起きるの?ここで何してるの?などなど)そして心についても子供にもわかるように何か話をしてくれました。その話は全く覚えていないのですが、そのお坊さんの美しさだけは覚えています。今思えば、言葉の美しさや所作の美しさ、思いの美しさ、その心の美しさがその人の美しさとなって表に現れていたのだと思います。


人って、そういうものが自然と出てきてしまうのだと思います。

その人の人格や思いが、顔や氣や波動となって出てきてしまう、隠せないのです。

今の自分はどうだろう?

そんなことを思い、思い出しながら鑑賞した大覚寺展でした。

 
 
 

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