top of page
  • 執筆者の写真渡邊 優

自分を愛すことができなければ他人を愛すことはできないし、自分を許すことができなければ他人も許すことはできない。自分を理解することができなければ他人を理解することはできないし、自分を認めることができなければ他人を認めることはできない。

最近このことをとても実感しています。


他人を認めようと思っても、パターンが、俺!俺!俺!俺!と騒いで他人を認めるどころでは無いし、他人を理解しようと思っても、許そうと思っても、愛そうと思っても、パターンが、俺!俺!俺!俺!と騒いで他人どころではなくなる。だから、まずは自分のパターンから愛して、認めて、理解して、許して、としないと、他人に純粋に意識を向けることが難しいのだと思いました。


当然といば当然なのですが、自分が満たされていないと中々他人まで目が届かないし、気持ちもいかない。自分を蔑ろにして他人を優先は、パターンが騒いで当然です。

これは、当然の摂理なのだと思いました。


腑に落ちて理解が出来たこの頃ですが、これからはそれも踏まえて、「置いといて」も実践に入れていこうと思うのでした。

最新記事

すべて表示

私のこの日記でもちょくちょく出てくる「他人の評価」「他人からのジャッジメント」「他人の裁き」これが嫌というパターンがあります。 パターン的にはこれをされると、何だかバカにされている気がするし、上から目線で見られている気がする、そうであると不快感を抱き、腹が立って、悔しい、とパターンは言います。 そして今選んでいる白パターンが、もう他人の評価に囚われて自分を苦しめるのはやめよう、です。 これは、自分

あっ、これパターンだな・・・と思った時、できるだけ力を抜くようにしています。 そうすると不思議と体だけではなく、心の力も抜けて、身構えていたり、緊張していたり、こうあらねばと凝り固まっていた心のひだが解けていくような感覚になります。 そのままの自分でいいとは、どうにかなろうとしなくていいし、どうにかしようとしなくていいのだと思いました。そのままの自分で、できるだけのベストを尽くせばいいし、ただ手は

誰かの言動に引っ掛かり、パターンが騒ぐ時、相手の中に自分を見ている気がします。 同じパターンを持つ相手に、自分を見ている気がするんです。そう思った時、この相手が何だかわかる気がしました。他人は自分の鏡とはこういうことかもしれません。不思議な感覚でした。 他人を通して自分を知り、自分と他人への理解も深まるのです。 相手を知り、理解することができるのも、黒パターンのお陰だと思いました。 そうやって相手

bottom of page