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  • 執筆者の写真渡邊 優

人の心のこと、精神のこと、そういったこの学びを初めてしばらくの頃私は、完璧な自分を求めていました。それはいつ何時でも穏やかで、誰にでも優しく、朗らかで、暖かく、キラキラしていて、健康で、ポジティブで、完璧な自分。きっと、本当の「私」というものにそういったイメージを抱いていたんだと思います。しかし今はどうかというと、そこに違和感を感じます。そんな人間いないって。


人間だから腹が立つ時もあれば、憎たらしいと思う時もある、寂しさを感じる時もあれば、悔しくてしょうがない時もある、妬み根性やひがみ根性も併せ持ち、失敗をして恥をかいて、惨めに感じて情けなくなる時もある。私は今それでいいと思っています。むしろそこからしか学べないと。


しかし以前はそれがあることを受け入れられませんでした。

だからネガティブなものを持っている自分を嫌だと思っていたし、他人からのジャッジも怖かった。

パターンがイメージする完璧になれば誰からも愛されて認められ、自分を肯定できると思っていたんです。だからそれを求めていました。違和感につながるとは知らずに。


そもままの自分でいいというのは、清濁併せ持つそのままの自分でいいとようやく分かりました。

あの陰陽マークのように。


今頃になってようやく気づく、黒白両方の大切さ。

学びを深めていきたい。そう思うのでした。

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